法制度 (更新: 2026年4月10日)

「労務費転嫁指針」を中小企業目線で読み解く

森岡誠

この記事の著者

森岡誠

価格転嫁の専門家・中小企業の価格戦略アドバイザー。「価格交渉は対立ではなく、取引先との共同課題解決」が信条。 プロフィール →

指針策定の根拠となった2023年時点の調査で、労務費の転嫁率は全コスト項目の中で最も低かった。原材料費80.0%、エネルギー50.0%に対して、労務費はわずか30.0%(いずれも中央値。出典: 公正取引委員会「令和5年度 価格転嫁円滑化の取組に関する特別調査」2023年12月)。その後の令和6年度調査では改善傾向が報告されているが、労務費が最も転嫁しにくいコスト項目であるという構造は変わっていない。

この状況を制度面から変えるために策定されたのが「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」だ。2023年に内閣官房と公正取引委員会の連名で策定され、2025年12月に取適法施行に合わせて改正された。法律そのものではないため法的拘束力はない。しかし、指針に沿わない行為が公正な競争を阻害するおそれがある場合は独占禁止法・取適法に基づき厳正に対処すると明記されている。「法律ではないから無視してよい」とはならない。

ただし、正直に言えば、指針があるからといって交渉が楽になるわけではない。現場では「指針を知っている」ことと「指針を使って交渉できる」ことの間に大きな溝がある。この記事では、受注側(下請け中小企業)が実際の値上げ交渉でどう使えるかに絞って指針を読み解く。制度の解説ではなく、交渉の現場で何が起きるかという視点で書く。


労務費だけが転嫁できていない——指針が生まれた理由

原材料費やエネルギーコストは価格転嫁が進みつつある。しかし労務費だけは取り残されている。なぜか。

理由は単純だ。原材料費には「鉄が○%上がった」という客観的な指標がある。エネルギーも「電気代の請求書」という動かぬ証拠がある。しかし労務費には、自社の賃金が上がったことを示す「相手が納得する根拠」を用意しにくい。

支援の現場でもこの問題に繰り返し直面する。単価自体が上がっていることはわかっているのに根拠を示せない。つまり原価管理ができていないことで、自信を持った交渉ができない。ならば指針に載っている最低賃金の上昇率で交渉しようとしても、示し方がわからない。この「根拠があるのに使えない」という状態が、労務費転嫁の最大の壁になっている。

もっとも、自信を持った交渉を行うのに一番効果的なのは、自社の原価管理ができていて、上昇コストを明確に数字で示せることだ。「うちの労務費は2年前から〇%上がっている」と自社のデータで説明できれば、それが最も強い根拠になる。ただ、現実にはそこまで原価管理が整備できている中小企業は多くない。原価計算の具体的な始め方は中小企業でもできる原価計算の始め方で3ステップに分けて解説している。

この現実を制度面から補うために作られたのが、労務費転嫁指針だ。自社の原価データが十分に整備されていなくても、公表データを根拠にして交渉してよいというルールを明文化し、発注者と受注者の双方に12の行動指針を示した。

なぜ値上げ交渉がそもそも通らないのか、構造的な理由については価格転嫁できない5つの理由と突破口で詳しく解説している。

コスト項目別の転嫁率(中央値)

原材料費
80.0%
エネルギー
50.0%
労務費
30.0%

※ 公正取引委員会「令和5年度 価格転嫁円滑化の取組に関する特別調査」(2023年12月公表)に基づく中央値。令和6年度調査では労務費の転嫁率は改善傾向にある。


指針の核心——発注者がやるべき6つの行動と「やってはいけないこと」

指針は発注者に6つ、受注者に4つ、双方に2つ、合計12の行動指針を定めている。受注者の立場で最も重要なのは、「発注者が何をすべきとされているか」を知っておくことだ。発注者の義務を知らなければ、交渉で指針を活用できない。

発注者に求められる6つの行動:

  1. 経営トップが労務費転嫁の受入方針を決定し、社内外に表明する
  2. 受注者から要請がなくても、年1回〜半年に1回、定期的に協議の場を設ける
  3. 根拠資料を求める場合は公表資料のみとし、受注者が公表資料で提示する価格を尊重する
  4. サプライチェーン全体での適切な価格転嫁を行う
  5. 転嫁の申入れに対し協議テーブルにつき、不利益な取扱いをしない
  6. 受注者の申入れの巧拙にかかわらず協議し、必要に応じ転嫁の考え方を提案する

とくに重要なのが3番目だ。「公表資料に基づく提示を尊重する」——つまり、自社の賃金台帳や内部データを見せなくても交渉に臨めると指針が明文化している。最低賃金の上昇率、春闘妥結額、公共工事設計労務単価といった公表データが根拠になる。

ある樹脂成形部品加工業では、所在地域の最低賃金上昇率14%をそのままマンチャージに適用し、355品番すべての加工費単価を改定した。年間で1億2,000万円の転嫁を実現している(出典: JAPIA「価格転嫁事例集(労務費)」事例108)。最低賃金の上昇率という公表データ1つで、大規模な値上げの根拠を作れた事例だ。

6番目の「申入れの巧拙にかかわらず協議する」も知っておくべき規定だ。ただし、これは「拙い説明でも相手が受け入れてくれる」という意味ではない。発注者が協議のテーブルにつくべきとされているだけであり、交渉の中身は自分で作る必要がある。指針は交渉の「入口」を開くものであって、「結果」を保証するものではない。

(出典: 公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」

やってはいけないこと: 協議に応じず一方的に価格を据え置くことは、2025年12月改正で「協議に応じない一方的な代金決定」として取適法上の問題となるおそれがあると明記された。この点は、「買いたたき」とは?具体例でわかる判断基準で詳しく解説している。


受注者の強み——公表資料だけで交渉に臨める

指針は受注者にも4つの行動を求めている。

  1. 相談窓口等を活用し積極的に情報収集する
  2. 公表資料(最低賃金上昇率、春闘妥結額等)を根拠として活用する
  3. 交渉力が優位なタイミングを活用する
  4. 発注者の価格提示を待たず、自ら希望価格を提示する

2番目の「公表資料の活用」が、受注者にとっての最大の強みだ。以下に、交渉で使える公的データを整理した。

公的データ発行元使い方
都道府県別最低賃金と上昇率厚生労働省自社所在地の最低賃金上昇率を転嫁の基準に
春季労使交渉の妥結額・上昇率経団連・厚生労働省業界平均の賃上げ率として提示
公共工事設計労務単価国土交通省建設業の労務費基準として活用
賃金構造基本統計調査厚生労働省地域別・年齢別の平均賃金で労務費レートを推計
毎月勤労統計厚生労働省業種別の賃金変動を示す根拠に
消費者物価指数総務省生活コスト上昇の補強データとして
ハローワーク求人情報厚生労働省人材確保のための賃金上昇の根拠に

実際に、このデータの使い方を知っているかどうかで交渉結果が大きく変わる。ある繊維製造業では、仕入先の実際の賃金データが開示されなかったが、厚生労働省の賃金構造基本統計調査を使って年齢層別の労務費レートを推計した。月例賃金分26.38円/分+賞与分5.53円/分=31.9円/分という分単位のレートを算出し、旧レート26.9円/分との差額5.0円/分を加工費単価に反映させた(出典: JAPIA「価格転嫁事例集(労務費)」事例107)。公表統計と年齢層別人員数の組み合わせで、十分に精度の高い根拠を作れた事例だ。

また、プレス加工業では、仕入先の賃上げ3.0%を自動車産業3.8%、全産業3.6%、都道府県別最低賃金上昇率4.5%の3つの公的指標と比較して妥当性を確認し、年間2,118千円の転嫁に合意した(出典: JAPIA「価格転嫁事例集(労務費)」事例103)。複数の公的指標でクロスチェックすることで、双方が「この数字は妥当だ」と合意できる土台ができる。

さらに、正社員と外国人技能実習生で異なる指標を適用した精緻な事例もある。正社員には平均賃金改定率5.0%、外国人技能実習生には最低賃金上昇率6.77%をそれぞれ適用し、雇用形態別の転嫁額を算定した企業がある(出典: JAPIA「価格転嫁事例集(労務費)」事例104)。一律の指標ではなく実態に即した公的データを使い分けることで、公正な算定が可能になる。

3番目の「交渉力が優位なタイミングを活用する」については、値上げ交渉のタイミング|通りやすい時期と準備の段取りで詳しく解説している。4番目の「自ら希望価格を提示する」ための資料作りは、価格交渉資料の作り方|2〜3枚で通すが参考になるだろう。

受注者の4つの行動と実践のポイント

行動1

情報収集

相談窓口・セミナー・業界団体の情報を活用

行動2(最重要)

公表資料で根拠を作る

最低賃金・春闘・賃金統計で値上げの根拠を構成

行動3

タイミングを選ぶ

予算策定前・契約更新時が通りやすい

行動4

自ら価格を提示する

発注者の提示を待たず希望額を先に出す


2025年12月改正で何が変わったか

2025年12月26日、指針が改正された。取適法(旧下請法)の施行(2026年1月1日)に合わせた見直しだ(出典: 公正取引委員会 2025年12月プレスリリース)。

改正の主なポイントは3つある。

1. 取適法の条文との対応を明記。 指針に沿わない行為が取適法上のどの規定に抵触しうるかが具体的に記載された。「努力目標」から「法律の裏付けがあるルール」へと、指針の実効性が一段上がった。

2. 転嫁に向けた取組事例の追加。 発注者・受注者の双方が実際にどう行動したかの事例が充実された。受注者としては、交渉資料の作り方や値上げの申入れ方法の参考になる。

3. 協議拒否のリスクが明確化。 受注者から値上げの協議を求められたにもかかわらず応じず、一方的に価格を据え置く行為は「協議に応じない一方的な代金決定」として取適法上の問題となるおそれがあると明記された。

この改正により、指針の適用範囲と実効性は明確になった。指針は全業種が対象であり、重点6業種(自動車、電機電子、建設、食品、繊維、金属)以外の企業にも適用される。発注者にとっても「知らなかった」では通りにくい環境になりつつある。

あるサービス業のアウトソーシング企業では、指針と最低賃金データを組み合わせた交渉資料を作成し、取引先を「交渉しやすい顧客」と「代替しにくい業務」の4象限で分類してから交渉に臨んだ結果、全体として10〜20%の値上げに成功した(出典: 埼玉県「価格転嫁成功事例集」事例78)。指針の存在を伝えること自体が交渉の土台になり、公的データを添えることで担当者の社内説得を助けた事例だ。

ただし、指針は「守れば必ず転嫁できる」というものではない。指針は交渉の土台を作るツールであって、相手を追い詰めるための武器ではない。根拠を持って交渉に臨み、相手にとっても受け入れ可能な提案をすることが、転嫁を実現する前提であることは変わらない。

(指針の全文は政府広報オンラインでわかりやすく紹介されている)


よくある質問

Q. 労務費転嫁指針に法的拘束力はありますか?

指針自体に法的拘束力はない。ただし、指針に沿わない行為が公正競争を阻害するおそれがある場合、独占禁止法・取適法に基づき公正取引委員会が厳正に対処すると明記されている。実際に指針策定以降、労務費の買いたたきに関する勧告事例は増えている。とはいえ、指針を根拠に直接罰則が科されるわけではなく、独禁法や取適法を介した間接的な強制力だ。

Q. 労務費の根拠資料は社内の賃金台帳を開示しなければなりませんか?

指針上は不要だ。公表資料(最低賃金上昇率、春闘妥結額等)に基づく提示を発注者は尊重すべきとされている。ただし現実の交渉では、発注者側から「御社の実際の賃金データを見せてほしい」と求められることもある。その場合、指針の該当箇所を示しつつ「公表資料で提示します」と伝えることが基本だが、関係性によっては柔軟な対応が必要な場面もある。

Q. 社会保険料の上昇も労務費に含まれますか?

含まれる。労務費は賃金だけでなく、法定福利費(社会保険料の事業主負担分)も対象だ。最低賃金の上昇に連動して社会保険料も上がるため、この点も値上げ交渉に含めるべきだ。見落としがちだが、法定福利費の上昇分も合わせて計算すると転嫁の根拠がより厚くなる。

Q. 発注者から「指針は知らない」と言われたらどうすればいいですか?

現実には、指針の存在を知らない発注者は少なくない。その場で相手を責めても交渉は進まない。指針の概要版を「参考資料」として渡し、業界全体の動きとして説明する方が効果的だ。政府広報オンラインにわかりやすい概要版がある。それでも協議に応じてもらえない場合は、取引かけこみ寺(0120-418-618)への相談も選択肢になる。


まとめ:今日からできること

  1. 指針の概要版をダウンロードする——政府広報オンラインから入手し、交渉資料の一部として手元に置く
  2. 自社に関係する公的データを1つ選ぶ——最低賃金上昇率、春闘妥結額、賃金構造基本統計のいずれかを確認し、値上げの根拠として準備する
  3. 取引先に協議を申し入れる——指針は「受注者からの申入れの巧拙にかかわらず協議する」よう発注者に求めている。完璧な資料がなくても、まず申し入れることが第一歩だ

根拠なき値上げはただの値上げだ。しかし、公表データに基づく労務費の転嫁は正当な経営行為だ。指針はその正当性を裏付ける公的な根拠になる。

ただし、指針を振りかざして強気に出ることが目的ではない。敵対的な交渉は短期的に通っても、取引関係は長く続かない。大切なのは、自社との取引にどんな価値があるのかを相手にわかってもらった上で、適正な価格を一緒に考えていくことだ。指針はその対話を始めるきっかけとして活用し、労務費の変動を定量データで継続的に追跡できる体制を整えてほしい。

なお、2026年4月には官公需の全契約にスライド条項を義務化する「価格転嫁加速化プラン」が発表された。取適法と合わせて民間も官公需も据え置きを許さない体制が整いつつある。詳細は価格転嫁加速化プランとは?中小企業への影響で解説している。


免責事項

この記事は、内閣官房・公正取引委員会が公表した「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」に基づく一般的な情報提供を目的としたものであり、個別のケースに対する法的助言ではない。指針の適用や価格交渉の進め方は取引の個別事情により異なるため、具体的な事案については公正取引委員会の相談窓口または弁護士に確認することを推奨する。


この記事の著者

森岡誠 価格転嫁・価格交渉の専門家・経営アドバイザー。製造業・建設業・運送業を中心に、中小企業の価格転嫁を支援。原価管理部門および経営コンサルティングファームでの実務経験をもとに、現場で使える情報を発信している。

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