労務費が値上げ交渉で通らないのは、製品別の労務費を数字にできていないからだ。材料費には仕入単価がある。「鉄が〇%上がった」と言えば取引先にも伝わる。しかし労務費で「人件費が上がった」と言っても、相手は「いくら?どの製品に?」と返してくる。その問いに答えられるかどうかが、労務費の値上げ交渉を分ける。価格転嫁のための原価計算で求められるのは、精密さではない。「前年からいくら上がったか」という差分を、製品別に示せることだ。
材料費は通るのに労務費が通らない——「製品別の数字」がないから
公正取引委員会の2023年調査で、コスト項目ごとの転嫁率にはっきりした差が出ている。原材料費の転嫁率は中央値80.0%、エネルギーコストは50.0%。そして労務費はわずか30.0%だ(出典: 公正取引委員会「令和5年度 価格転嫁円滑化の取組に関する特別調査」2023年12月)。
なぜこれほど差がつくのか。
材料費には「客観的な価格指標」がある。鉄鋼価格、樹脂価格、銅相場——市場価格が公開されているから、「この材料が〇%上がった。だから値上げが必要です」と言えば、担当者も社内で説明できる。エネルギーも電気代の請求書という動かぬ証拠がある。
しかし労務費には、それに相当するものがない。公正取引委員会の労務費転嫁指針では公表資料(最低賃金上昇率・春闘妥結額等)に基づく交渉を認めている(出典: 公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」)。ただし現実の交渉では、公表データだけで値上げが通るほど甘くはない。取引先が聞きたいのは「御社の製品にいくら影響しているのか」であって、業界平均の賃上げ率ではない。
支援の現場でもこの問題には繰り返し直面する。「人件費が上がっています」と訴える経営者は多い。しかし「いくら上がったのか」「その製品にどれだけ影響しているのか」と聞くと、答えられない。労務費を製品別の数字にする仕組みがないことが、値上げ交渉で根拠を示せない最大の原因だ。
指針と公表データの活用法は「労務費転嫁指針」を中小企業目線で読み解くで詳しく解説している。ただし、指針は交渉の入口を開くものであり、自社の数字を出せることが最も説得力のある根拠になることは変わらない。
なぜ労務費だけ転嫁が進まないのか
出典: 公正取引委員会「令和5年度 価格転嫁円滑化の取組に関する特別調査」(2023年12月)に基づく中央値
配賦基準は「手元にあるデータ」で選ぶ
労務費を製品別に割り振るには「配賦基準」を決める必要がある。全社の労務費を、何の比率で各製品に配分するかのルールだ。
選択肢は複数ある。どれを選ぶかは、自社で取得しやすいデータに合わせるのが現実的だ。
| 配賦基準 | 何で割るか | 必要なデータ | 手軽さ | 精度 | 向いている会社 |
|---|---|---|---|---|---|
| 生産数量 | 製品の完成個数 | 製品別の完成数 | ◎ | △ | 少品種で、製品1個あたりの手間が近い |
| 売上高 | 製品の売上比率 | 製品別の売上 | ◎ | △ | 多品種で売上データが整っている |
| 直接材料費 | 材料費の比率 | 製品別の材料費 | ○ | △ | 材料費と手間が比例する製品構成 |
| 人工数 | 誰が何日従事したか | 出面帳・作業記録 | ○ | ○ | 建設業・プロジェクト型の現場 |
| 作業時間 | 製品別の作業時間 | 時間記録の仕組み | △ | ◎ | 時間管理が定着している工場 |
生産数量と売上高は、ほとんどの会社が既に持っているデータだ。新たな記録の仕組みを作る必要がないため、すぐ始められる。精度は高くないが、「数字がない」状態と「ざっくりでも数字がある」状態の差は、値上げ交渉において圧倒的に大きい。
作業時間をベースにした配賦(アワーレート方式)は、製品ごとの実際の作業負荷を反映するため精度が高い。ただし運用面では、粒度の設定(全社一律か工程別か個人別か)、含める費用の範囲、そして実稼働時間の把握という3つの課題がある。時間記録の仕組みが整っている会社にとっては有力な選択肢だが、仕組みがない状態から始めるなら、まず手元のデータで按分する方が先に進める。
建設業では出面帳(誰がどの現場に何日出たかの記録)に基づく人工数配賦が実務上広く使われている。月給を出勤日数で割って1人工あたり単価を出し、各現場の投入人工数で配賦する方法だ。業種ごとにデータの取りやすさが異なるので、自社の実態に合う基準を選ぶことが先決だ。
配賦基準に正解はない。「どれが正しいか」と悩んで手が止まるのが、最も避けたいことだ。まず1つ選んで割り振ってみる。結果に違和感があれば基準を変えればいい。原価計算全般の始め方は原価計算の始め方|中小企業が最初に出す3つの数字で3ステップに分けて解説している。
配賦基準の選び方——手元のデータから決める
実際に計算してみる——生産数量ベースの例
月間の労務費が300万円、製品Aを1,000個、製品Bを2,000個生産している工場を例に、労務費を製品別に割り振ってみる。
STEP 1: 構成比を出す
| 製品 | 月間生産数量 | 構成比 |
|---|---|---|
| A | 1,000個 | 33.3% |
| B | 2,000個 | 66.7% |
| 合計 | 3,000個 | 100% |
STEP 2: 構成比で労務費を按分する
| 製品 | 配賦される労務費 | 1個あたり労務費 |
|---|---|---|
| A | 100万円 | 1,000円/個 |
| B | 200万円 | 1,000円/個 |
STEP 3: 前年と比較して上昇額を出す
| 前年 | 今年 | 上昇額 | 上昇率 | |
|---|---|---|---|---|
| 月間労務費 合計 | 270万円 | 300万円 | +30万円 | +11.1% |
| 製品A 1個あたり | 900円 | 1,000円 | +100円 | +11.1% |
| 製品B 1個あたり | 900円 | 1,000円 | +100円 | +11.1% |
この「製品Aの労務費が1個あたり100円上がっている」という数字が、値上げ交渉の根拠になる。「人件費が上がりました」ではなく、「御社に納めている製品Aの労務費が1個あたり100円、率にして11.1%上昇しています」と提示できれば、担当者が社内で動ける材料になる。根拠なき値上げはただの値上げだが、製品別の数字に基づく値上げは交渉の提案になる。
この例は生産数量ベースの按分であり、製品1個あたりの作業負荷が同程度である前提の計算だ。製品Aの加工に30分、製品Bの加工に5分のように作業時間に大きな差がある場合は、作業時間ベースや他の配賦基準の方が実態に近い数字が出る。ただし、最初の一歩としてはこれで十分だ。精度を上げたくなったら配賦基準を変えればいい。
根拠が準備できたら、次は交渉資料にまとめる段階だ。資料の構成と渡し方は価格交渉資料の作り方|2〜3枚で通すで解説している。
労務費を製品別にする3ステップ
STEP 1
製品別の構成比を出す
STEP 2
構成比で労務費を按分
STEP 3
前年と比較して上昇額を出す
製品別の上昇額を出せれば、値上げ交渉で「いくら上がったか」に答えられる
精度より「始めること」が先
中小企業庁の価格交渉ハンドブックにはこう書かれている。「製品あたり・サービスあたりの原価計算は非常に複雑なため、多くの事業者が把握できていません」(出典: 中小企業庁「価格交渉ハンドブック」)。把握できていないのは、能力の問題ではない。原価計算を正確にやらなければと構えるから、手をつけられないのだ。把握できていなければ、値上げ交渉で「いくら上がったか」を聞かれても答えられない。根拠のない値上げ要請になってしまう。
精度を求めると手間がかかる。手間がかかると始められない。始められなければ、いつまでも「数字がない」状態のまま交渉に臨むことになる。この悪循環を断ち切るのは「ざっくりでもいいから、まず差分を出せる仕組みを作る」という割り切りだ。仕組みさえあれば、精度は運用しながら徐々に上げていける。
配賦基準は、データを定期的に更新しながら運用していくものだ。最初に選んだ基準が合わないとわかれば変えればいい。変動を継続的に追跡していけば、「前年からいくら上がったか」だけでなく、「3年間でどう推移してきたか」というトレンドも見えてくる。その積み重ねが、値上げ交渉の説得力を厚くする。
値上げ交渉が通らない構造的な理由は価格転嫁できない5つの理由と突破口で解説している。
よくある質問
Q. 労務費の配賦基準はどう選べばいいですか?
自社で取得できるデータに合わせて選ぶのが現実的だ。生産数量や売上高のデータがあれば、それを基準にすぐ始められる。正解はないので、まず一つ試して、結果に違和感があれば基準を変えればいい。
Q. 労務費を製品別に反映していない場合、何から始めればいいですか?
製造原価報告書の「労務費」を確認し、それを製品別に按分するところから始める。按分の基準は生産数量でも売上高でもいい。製品ごとの労務費単価と前年からの上昇額を出せれば、値上げ交渉の根拠になる。
Q. アワーレートは中小企業でも使えますか?
使える。ただし作業時間の記録・集計が必要で、運用負荷は小さくない。時間記録の仕組みがない会社は、まず生産数量や売上比率など手元のデータで按分する方法から始めた方が現実的だ。精度を上げたくなった段階でアワーレートに移行すればいい。
まとめ:まず製品別の労務費を1つ出す
- 配賦基準を1つ選ぶ——生産数量・売上高・材料費比率・人工数・作業時間。自社で取れるデータに合わせて選ぶ
- 製品別に労務費を割り振り、前年と比較する——「製品Aの労務費が1個あたり〇円上がった」を出す
- その数字を値上げ交渉の根拠にする——「人件費が上がりました」ではなく、製品別の上昇額を示す
一律の値上げ要請は交渉ではない。製品ごとの労務費データに基づいて「どの製品に、いくらの値上げが必要か」を示すことが、相手にとっても受け入れ可能な提案になる。まず数字を出し、賃上げに連動するコスト変動を継続的に追跡できる体制を作るところから始めてほしい。
この記事の著者
森岡誠 価格転嫁・価格交渉の専門家・経営アドバイザー。製造業・建設業・運送業を中心に、中小企業の価格転嫁を支援。原価管理部門および経営コンサルティングファームでの実務経験をもとに、現場で使える情報を発信している。