値上げ交渉の成否は、交渉の場に着く前にほぼ決まっている。自社の原価を数字で説明できるかどうかだ。
中小企業庁の「価格交渉ハンドブック」によると、原価構成を把握して交渉した企業の転嫁率は約80%、把握しない場合は約60%だ(出典: 中小企業庁「価格交渉ハンドブック」令和8年1月改訂版)。20ポイントの差は、交渉テクニックでも話術でもなく、「数字を持っているかどうか」だけで生まれている。
ただし、完璧な原価計算は必要ない。支援の現場で経営者と話していて強く感じるのは、完璧を求めるから原価管理ができないと思い込んでいる方が非常に多いということだ。複雑化する。難しいと感じる。そして手が止まる。この記事では、値上げ交渉の根拠として十分な「3つの数字」と、原価計算を始める際に多くの会社がはまる落とし穴について書く。
なぜ「原価がわかる会社」の値上げ交渉は通るのか
ある自動車部品製造業(従業員20名)では、受注単価が10年間据え置きのまま赤字経営が続いていた。転機になったのは、部品ごとの実際原価を算出したことだ。部品別に値上げ幅を1〜6割で設定し、取引先と個別に交渉した結果、数期ぶりに黒字転換を果たした(出典: 長野県「価格転嫁成功事例集」事例59)。10年間動かなかった価格が動いたのは、交渉がうまくなったからではない。根拠ができたからだ。
別の事例がある。ある自動車部品塗装業(従業員20名以下)は、それまで全製品を一律の見積もりで対応していた。しかし1品ごとの実際原価を算出したところ、赤字製品が特定できた。その製品を重点的に値上げ交渉した結果、最大で単価200%UPを実現している(出典: 長野県「価格転嫁成功事例集」事例67)。200%という数字は、従来の単価がいかに実際原価を下回っていたかを示している。
この2つの事例に共通しているのは、「製品別に」原価を出したことだ。全製品の平均で見ていても、赤字製品が黒字製品に隠れて見えない。「全体ではトントン」でも、個別に見ると「この製品は大赤字、この製品は十分な利益」という構図になっていることは珍しくない。製品別の原価を出せなければ、どこから値上げすべきかがわからない。
原価を把握していれば、相手の担当者も社内で動きやすくなる。「原材料が上がっているので値上げしたい」という抽象的な要望と、「この製品の原材料費が〇%上がり、原価が〇円上昇している」という具体的な提示では、担当者が稟議書に書ける内容がまるで違う。値上げ交渉が通らない構造的な理由については価格転嫁できない5つの理由と突破口で解説している。
原価データの有無で交渉はこう変わる
✕ 原価データなし
◯ 原価データあり
出典: 中小企業庁「価格交渉ハンドブック」。20ポイントの差は「数字を持っているかどうか」で生まれる。
原価計算は「完璧」を捨てたところから始まる
「原価計算」と聞くと、会計の専門知識がないとできないと思う経営者は多い。しかし原価計算はそもそも管理会計の分野だ。税務申告や財務諸表のための会計ルールとは別の話であり、どの会社も独自のルールで算出している。パターンはある程度限られるが、ルールは自社で決めていい。
値上げ交渉においては、独自ルールであっても、精度がそこそこであっても、根拠を示すには十分だ。材料費、労務費、その他経費。それぞれの上昇コストを示せればいい。
交渉に必要な数字は3つだけだ。
- 変動費——材料費・外注費など、生産量に応じて変わるコスト
- 固定費——人件費・家賃・光熱費など、生産量にかかわらず発生するコスト
- 製品別の粗利——製品ごとに「儲かっているか、赤字か」を見る数字
交渉に必要な「3つの数字」の関係
変動費
材料費・外注費
固定費
人件費・家賃・光熱費
総原価
製品別に割る
粗利が見える
赤字製品を特定
変動費と固定費の分け方は業種によって異なる。
| 費目 | 製造業 | 建設業 | 運送業 |
|---|---|---|---|
| 変動費 | 材料費・外注加工費・消耗品費 | 資材費・外注費・仮設材 | 燃料費・高速代・傭車費 |
| 固定費 | 人件費・減価償却費・家賃・光熱費 | 人件費・重機リース・保険料 | 人件費・車両リース・保険料 |
光熱費のように「変動費にも固定費にも見える」費目は必ず出てくる。迷ったら固定費に入れておけばいい。 ここで分類に悩んで手が止まるのが、原価計算が進まない最大の原因だ。
まずは仕組みを作ることを優先してほしい。精度はあとから上げられる。
原価計算で多くの会社がはまる落とし穴
変動費と固定費を分けた後、製品別に原価を出す段階で多くの会社が壁にぶつかる。コスト項目ごとにアプローチが異なるからだ。支援の現場でよく見る落とし穴を整理する。
材料費——精度は出しやすいが、ロス率を忘れる
材料費は3つのコスト項目の中で最も精度が出しやすい。飲食業でいう「理論原価」と同じ考え方で、レシピ(使用材料と分量)にロス率を加味すれば、かなり正確な数字になる。製造業なら図面や仕様書がレシピの代わりだ。
ただし、ロス率を考慮していないケースは多い。端材や不良品のロスを含めずに原価を出すと、実際の原価より低く見積もることになる。値上げの根拠としてはこの差が効いてくる。
材料費の算出イメージ
材料単価
仕入れ価格
使用量
図面・仕様書
1 + ロス率
端材・不良品
実際の材料費
交渉の根拠
ロス率を入れ忘れると、実際より安く見積もることになる。この差が値上げ根拠の説得力を左右する。
労務費——40年間反映していなかった会社もある
労務費は材料費ほどの精度は出ない。製品ごとに製造担当者が明確に張り付くケースは少なく、何かしらの基準で配賦(按分)する必要がある。配賦基準は「作業時間」「生産数量」「売上高」など複数あるが、どれが正解かは会社によって異なる。まず一つの基準で配賦してみて、結果に違和感があれば基準を変えて調整すればいい。
それ以上に深刻なのは、そもそも労務費を原価に含めていない会社が多いことだ。ある金属加工業では、原価計算を学び直した際に初めて気づいた。40年間、材料費しか値上げに反映していなかったという(出典: 埼玉県「価格転嫁成功事例集」事例79)。
労務費の計上漏れは、支援の現場で最も多い落とし穴の一つだ。「労務費」は給与だけではない。社会保険料の事業主負担(給与の約15%)まで含めて初めて労務費となる。これを意識せずに値上げ交渉しても、原価の実態を反映できない。
「労務費」の落とし穴——社会保険料の事業主負担を忘れていないか
給与
基本給・賞与・手当
社会保険料
事業主負担分
労務費
交渉の根拠
社会保険料の事業主負担は給与の約15%。これを含めないと原価を過小評価してしまう。
労務費を製品別に割り振る具体的な配賦基準の選び方と計算例は労務費を原価に反映する方法で解説している。値上げの根拠として使える公的データの活用法は「労務費転嫁指針」を中小企業目線で読み解くで詳しく解説している。
製造経費——配賦基準に正解はない
製造経費やその他の固定費も、製品別に出すには配賦が必要になる。製品別の固定費は、所詮は何かしらの配賦基準を決めなければならない。配賦基準次第で数字は大きく変わる。ここで「正しい配賦基準は何か」と悩むと手が止まる。
正解はない。だからこそ「完璧な正解はない」と割り切ることが大切だ。配賦してみて結果に違和感があれば、基準を変えて調整する。その繰り返しで精度は上がっていく。
精度の順序は「材料費 > 労務費 > 製造経費」で、だいたい合っている。 すべてを同じ精度で出そうとするから複雑になる。材料費をしっかり出し、労務費と経費はまず配賦してみる。この順番で進めるのが現実的だ。
コスト項目別の精度と取り組み方
材料費から精度を上げていく。すべて同じ精度を求める必要はない。
製品別粗利の可視化——赤字製品から優先的に交渉する
全製品を一律に値上げするのではなく、赤字・薄利の製品から優先的に交渉する。取引先の理解も得やすい。
原価の数字が交渉を変える
原価計算は、値上げ交渉の根拠を作るため、そして製品別の採算を知るためにやる。そう割り切って取り組むのが正解だ。
ある組立加工業(従業員3名)では、専門家の助言を受けて原価を把握し、損益分岐点を設定した。そのデータをもとに燃料費・電力・労務費の上昇分として15%の改善を要望し、5%の改善で黒字転換を果たした。さらに取引先に定期的な値上げ交渉の場を要望し、それも認められている(出典: 福島県「価格転嫁の成功事例」事例97)。従業員3名の会社でも、数字を持っているだけで交渉の場が生まれた。
原価の数字が揃ったら、取引先が理解できる資料にまとめる。材料費なら仕入単価の推移、労務費なら最低賃金の上昇率、経費なら電力単価の推移。それぞれ根拠を示せばいい。原価データを交渉資料に落とし込む方法は価格交渉資料の作り方|2〜3枚で通すで詳しく解説している。
原価の数字が交渉を変えるまでの流れ
原価を把握
3つの数字を出す
根拠資料を作成
2〜3枚にまとめる
根拠ある交渉
「お願い」→「提案」
転嫁実現
自信 → 説得力
根拠を示せれば、自信につながる。自信は交渉の場面で説得力に変わる。値上げの「お願い」が「根拠ある提案」に変わる瞬間は、原価の数字を自分の手で出したときに生まれる。
よくある質問
Q. 原価計算にはどんなソフトが必要ですか?
最初はエクセルでも始められる。ただし製品数が増えたり、取引先ごとの分析が必要になると管理が煩雑になる。自社の規模や目的に合った仕組みを早めに整えた方がいい。仕組みが回り始めれば、精度は自然に上がっていく。
Q. 原価計算のデータを取引先に見せるべきですか?
労務費転嫁指針では、公表資料に基づく提示で足りるとされている。ただし、自社の原価データを示した方が説得力が増すのも事実だ。どこまで開示するかは取引先との関係性による。全データを見せる必要はないが、根拠として原価の一部を見せることで交渉が進みやすくなるケースは多い。「見せない」を前提にするのではなく、何をどこまで見せるかを自分で選べる状態にしておくことが大切だ。
Q. 多品種少量生産でも製品別の原価計算はできますか?
できる。500品目の個別原価計算で精緻な価格転嫁を実現した機械部品メーカーの事例がある(出典: 近畿経済産業局「価格交渉・価格転嫁取組事例集」事例91)。品目数が多いほど一律の値上げでは取引先の理解を得にくい。だからこそ、個別に原価を出す意味がある。
まとめ:原価計算は完璧を捨てたところから始まる
- 変動費と固定費を分ける——迷ったら固定費に入れておく。まず仕組みを作ることが先
- 製品別に粗利を見る——全製品の平均ではなく、製品ごとに。赤字製品が隠れていないかを確認する
- 赤字製品から優先的に値上げ交渉する——一律の値上げではなく、根拠ある製品別の交渉を
原価を知らずに価格を決めるのは、利益を知らずに経営するのと同じだ。完璧な原価計算は必要ない。まず仕組みを作り、精度はあとから上げていけばいい。コスト変動を定量データで継続的に追跡できる状態にすることで、交渉のたびにゼロから数字を作る負担がなくなる。原価の数字が揃ったら、コスト上昇分のうち何割を価格に反映できているかを転嫁率として算出し、業種平均と比較する。転嫁率の計算方法は価格転嫁率とは?計算方法と自社の転嫁率の調べ方で解説している。
この記事の著者
森岡誠 価格転嫁・価格交渉の専門家・経営アドバイザー。製造業・建設業・運送業を中心に、中小企業の価格転嫁を支援。原価管理部門および経営コンサルティングファームでの実務経験をもとに、現場で使える情報を発信している。